奈良・鎌倉 大仏百科
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鎌倉の大仏の不思議

鎌倉の大仏の不思議や謎、国宝にもかかわらず一部強化プラスチックが使われている事実などを紹介していきます。最初に造られた木造の大仏の利用目的の面白い諸説なども併せて紹介していきましょう。

木造の大仏は型用だった!?

鎌倉の大仏

最初に造られた鎌倉の大仏は木造であったと言われています。これはもしかしたら間違いのない事実かもしれません。やがて自然の力によって倒壊するわけですが、この木造の大仏は、現在の大仏のように鋳造するための型用に造られたのではないかと言われています。

奈良の大仏の粘土製の塑像とは違い、鎌倉の大仏の胎内を見ると、縦や横に無数の木の枠があった跡が見て取れます。これにより鎌倉の大仏の塑像は木材であったことがうかがえます。

塑像木造説

ただ木材で木枠を組んだだけでは塑像になりません。木造で大仏を造り、それを塑像として鋳造して現在ある大仏が造られたのではないかという説があります。木造の大仏を原型とするならば、粘土の塑像を使ったように大仏を鋳造することができますし、鋳造が終ったら中の木材をはずせばいいだけですので、違う場所で造らずとも、その場で大仏を造ることができます。

実際鎌倉の大仏は、鋳造で大仏の周りに盛られた土なども境内から発掘調査により出てきていますので、現在ある場所で造られた事だけは確かなようです。

鎌倉の大仏が教科書に載っていないわけ

鎌倉の大仏東大寺や奈良の大仏、大仏殿のことは教科書で習った記憶があるでしょう。文献が数多く残っていて、歴史的裏付けができているので教科書にも載っています。奈良の大仏関連のことが教科書に載っている理由を読んだら、鎌倉の大仏や高徳院が教科書に載っていない理由も、もうお分かりでしょう。

あまりにも資料に乏しすぎるのです。現在頼りになる文献といえば「吾妻鏡」などだけで、記載されている鎌倉の大仏や高徳院に関する事柄や言い伝えられている諸説が、歴史的事実と裏付けられる資料がないのです。そのため鎌倉の大仏に関しては教科書でも詳しく説明ができないということです。

「吾妻鏡」は全部で54巻あったとされていて、現存するのは7巻しかなく、欠落している45巻の中に、詳しいことが書かれていたのではないかという説もあります。しかしこれも諸説でしかないのです。この「吾妻鏡」自体、いつ誰が書いたものかもはっきりしたことは分かっていません。これだけ大きな大仏を造ったり、奈良の大仏殿には及ばないものの、巨大な大仏殿も建造されていて、完成までは何年もかかったであろうと考えられるのに、幕府も関わらずに一切の記録がリアルタイムで残されていないということもまた謎なのです。

鎌倉の大仏は耐震構造?

奈良の大仏や鎌倉の大仏が、揺れに耐えられずに倒れてしまったらどんなことになるのでしょうか。そばに人がいたら大惨事になることは間違いありません。しかし、1923年の大きな揺れで関東が大騒ぎになったときでも、台座が崩れて大仏が前にずれただけで、倒れるということはありませんでした。

耐震工事

1926年、鎌倉の大仏の台座の弱い部分を補って強くし、大仏を台座に固定する耐震構造の強化がされました。1959年から翌年にかけて行われた大仏の修理では、前に傾いている頭部を支える首の部分を内側から強化プラスチックで強度を増す作業がされ、大正時代に施された耐震構造を見直して、大きな揺れがきた場合は、台座と大仏が別々に離れるような免震構造になりました。こうして強化プラスチックを使うことや免震構造を施すことは、我が国の文化財では初めてのものになります。

鎌倉時代の大仏なのに平安時代のいでたち

鎌倉の大仏は、その猫背気味の姿勢や顔の大きさが、鎌倉時代の流行であるということを表わしていますが、来ているものが鎌倉時代のもではなく、平安時代の浄土信仰で見られる1枚の布で両方の肩を覆う着方をしています。鎌倉時代の仏像としては珍しいものです。体つきは鎌倉時代ものなのに、何故身にまとうものが平安時代のものなのかは不思議ですね。

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